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旅行期間:8/23/2005-9/2/2005(11日間)
移動手段:鈍行列車(JR)+長距離バス





8/27(四日目):
盛岡 (岩手)花巻 (岩手)盛岡 (岩手)小岩井(岩手)盛岡 (岩手)

(赤字は観光した場所。それ以外は乗り換え地点。)


昨日、急遽予定を変更したために、今日は昨日のうちに行く予定だった花巻での宮沢賢治記念館などの宮沢賢治関連のところへ午前中に行き、それからもともと一日過ごす予定だった小岩井農場へお昼から夕方まで行くことにした。そのため、今日も忙しい。また朝早い出発なのだ。


6時ごろ目を覚まし、出かける準備をする。盛岡を7時52分に発つのだ。そのために、食事の時間と彼女の化粧時間などを入れて逆算していくと大体6時ごろの起床が一番よい。しかし、寝不足気味になるのが難点だ。出かけるすべての準備をして、部屋を出、フロントに鍵を預ける。そして、ロビーに用意されているパンとコーヒーをいただく。安いシティホテルなのだが、このホテルのいいところは、ちょっとした朝の食事が込みで、また駅のまん前ということだ。移動が多い旅行にはもってこいだ。パンを食べ、コーヒーで寝不足気味のだるい目に渇を入れる。


さぁ、花巻へ。


盛岡のホームには登校途中の高校生ばかりが目立つ。90%以上が学生だ。県庁所在地の盛岡でも郊外の学校に通う生徒が多いのだろうか。しかも、それぞれ、違う制服なのだ。それ以前に、まだ8月なのに制服姿の学生を多く見ること自体驚きだ。やはり北の方では夏休みが短いのか。北海道では夏休みが短く、冬休みが長いという話は聞いたことあるが、それは東北の学校でも当てはまることだったのだろうか。とにかく、学生が多い。自然、車内でも高校生の乗り降りが激しい。しかし、花巻に近づくにつれ、その姿も見なくなった。


8時半に花巻についた。駅でスタンプを押す。この旅の楽しみ(もっぱら彼女の楽しみなのだが)は、このスタンプ集めである。この旅行のために新しくノートを購入して、そこにスタンプを押しと日記を書いていくのが2人がつくった旅のルールである。各駅、各資料館、各名所などに用意されているスタンプを集める。これが、結構楽しい。逆に、こんなところにもスタンプがあるよっていうような発見が楽しかったりもする。駅のスタンプはまさに、その駅に行ったという思い出の証拠である。今後、到底行かないような駅でのスタンプは、やはりこの旅ならではのお土産だ。


さぁ、宮沢賢治記念館にでも行くか。駅でバスの時刻を調べると、8時40分に宮沢賢治記念館前を通るバスがあるじゃないか。ナイスタイミング!が、しかし、よく見るとこの時間のバスはそこを素通りするようだ。止まらない。それじゃあ意味がないじゃないか。ということで、急遽タクシーを利用することに。タクシー乗り場に行くと、各観光名所までの距離と大体の料金の目安が書いてる。見るところによると、宮沢賢治記念館までは1900円程度ということらしい。まぁ、バスで行けないのであれば、これしかない。ここまで来て帰ることもないので、タクシーで宮沢賢治記念館まで行った。結局2020円払った。貧乏旅行にタクシーは似合わない。贅沢なことはしたくない。なるべく控えたい。


宮沢賢治。奇しくも僕と同名(もちろん同姓ではないが)であり漢字も同じため、何か昔から不思議な思いがあり、とても気になる存在だ。宮沢賢治の作品は好きだ。昔、「注文の多い料理店」や「銀河鉄道」など夢中で読んだことがある。記念館で彼の生い立ちやその当時の時代情勢などをみることによって、詩人であり童話作家である宮沢賢治という人間のすごさを知ることが出来た。資本主義という新しい社会構造が出来上がっていき、労働者がどんどん首を絞められていく中、あのような夢のある話を次から次へと生み出していくその無限の感受性にとても強いショックを受けた。それと同時に、彼の字の汚さにもショックを受けた。


宮沢賢治は、出身県である岩手県のことをイーハトーブと呼んだ。まさに故郷こそが楽園である。岩手県は彼にとって夢の大地であったのだろう。その呼び名を取った、イーハトーブ館は記念館から坂を下ったところにある。その坂も、彼の作品をちなんだ庭アートが施されていて、急な坂なんだけど、歩いていて楽しかった。イートハーブ館の展示物は特に気が引けるようなものはなかったが、売店で絵本などが売られていたのが気になった。彼女と、こういう絵本を揃えたいよねという話をしながら、手にとってぱらぱらとめくってみたりする。宮沢賢治の作品は絵が一緒になるとさらに楽しくなる。


イーハトーブ館をあとにして、国道を挟んだ向かい側にある宮沢賢治童話村のほうへいった。もうすぐバスが通る時間で、あと20分程度だったので、童話村で開かれていた宮沢賢治誕生祭をみることにした。今日の催し物は、保育園児たちのステージショーだった。みんなはっぴなど身にまとって、太鼓や伝統舞踊を舞ったりする。それが、否応なしにかわいい。自分の保育園時代を思い出してみる。たいした記憶はよみがえらない。保育園の記憶はほとんどないんだなぁ。悲しいことに。バスの時間になったので、バス停に戻り、バスに乗り込み、花巻駅へもどる。うん、午前中だけで十分だった。もっと時間あれば、他に行きたいところもあるが、宮沢賢治の生い立ちから彼の思想、人生観を学べただけで満足だ。


11時50分の電車で盛岡へ戻る。そのまま、12時46分発の田沢湖線にのりかえ、小岩井へ行った。小岩井農場だ。意外と寂れた駅に着いた。ガイドブックによると、駅からバスが出ているらしい。よし、バス停はどこだ、っと見渡してみてもそれらしきものがない。どういうことだ?駅員さんに聞いてみたが、廃線となったらしくて、今はタクシーでしかいけないという。しかも、昨年11月の出来事だと。おいおい、このガイドブックは05年ものだぞ。情報をちゃんと更新しておいてもらいたい。しかたなく、タクシーに乗り込んだ。運転手さんはとてもいいかたで、小岩井農場のことを少し話してくれた。それにしても、バスがなくなったのはやっぱり痛いらしい。わざわざ小岩井駅まできて、農場に向かう人も少なくなってきて、今では、盛岡から直接バスでやってくる人が多いらしい。


小岩井農場。昔から実家には、お歳暮やお中元などで小岩井農場のバターやマーガリンやハムやジャムなどが送られてきていた。だから馴染み深い。小岩井農場が東北、しかも岩手県にあるとは全く思いもしなかった。堂々とそびえる岩手山のふもとに開かれた農場。500円の入場料をはらって、ぺこぺこになったおなかをなだめるために、バイキングレストランへ向かう。そこで、資料を読んでみたのだが、小岩井農場、その歴史は100年以上前にさかのぼり、時は明治24年。火山灰土が広がるこの地に、日本鉄道会社副社長の小野義真、三菱社社長の岩崎彌之助、鉄道庁長官の井上勝らが、植林をはじめ、酪農事業を開始したのを期限とする。彼らの頭文字をとって小岩井とこの地を名づけたらしい。余談だが、このうち、岩崎彌之助は三菱創始者の岩崎弥太郎の弟である。岩崎弥太郎とは、土佐の出身で同じ土佐の坂本竜馬と時に対立し、時にある意味でよき理解者であったらしい。この二人は、幕末という時代に珍しくビジネスという観念を強く持っていたらしい。(岩崎弥太郎がつくった三菱。三菱の三つの菱形マークは土佐藩主山内家の家紋がもとになっている。)小岩井農場はその後、弥太郎の長男の久彌に受け継がれる。もちろんその間も、三菱という会社も経営している。なんかこの岩崎家というのは、常に時代の先を行き、今で言えば環境保全活動のような植林事業と農場経営もしているから、おもしろい。


話はそれたが、小岩井農場についてすぐ、すこし遅れた昼食をもりもりとった。たくさんあるレストランからバイキング形式のレストランを選んだ。一人1500円だ。もう何がなんだか分からないくらいお皿にとっていざ並べてみると、ああぁ、全部食えるのかよっていうぐらいになった。時間をかけてゆっくりと食べていく。そんな時、爪楊枝入れが目に入る。牛乳を入れる容器の形じゃないか。凝っている。かわいい。


他の客が一人もいなくなるまで、店員さんが片付け始めるまでのんびり食べた。そのあと、牛の乳搾りへいった。僕は、かつて経験があるからやらなかったが、やったことがないという彼女はちびっ子たちの列の中に混ざってならんだ。面白そうに牛の乳を搾る子もいれば、恐る恐るやるこもいれば、突然泣き叫分子もいて、牛のほうがびっくりしてるような場面もあったりと、なかなかおもしろい。そのあと、羊たちと戯れたり、シープドッグショーを見たりと、のどかな農場風景と共に、たのしんだ。シープドッグショーでは、いつもはしっかり働いているその犬(名前忘れた)も、今日はなぜか働きが悪い。羊3匹を橋を渡らせたり、ゲートをくぐらせたりといったコースにそって進めさせる最後の見せ場では、5分以内に終わらせると羊飼いのお姉さんは言ったのだけれど、結局一つの難関も越えることなく終わってしまった。それでも、その愛嬌で観客も笑うしかない。農場は4時半ごろから閉園となり、最終バスは4時45分とはやい。気づいたらすでに40分近くになっており、走ってバス乗り場に行った。このバスで直接盛岡駅に行く。


バスの中では、爆睡だった。相当疲れている。


6時前に盛岡に着いた。ほんとホテルが駅前というのはありがたい。すぐにホテルに戻って、部屋で休憩する。ちょっと休んで、盛岡の町を歩こうということになったのだけど、彼女はものすごい深い眠りに入ってしまったので、何度起こしてもその度に怒られる。結局彼女は3時間も眠り込んでしまった。夜も遅くなってしまい、街を歩くということもできなくなってしまった。でも、おなかはすいているので、たまたまガイドブックに載っている冷麺の有名なお店がホテルの向かいにあったので、そこへ行った。冷麺のお店というよりも、焼肉の店。でも盛岡冷麺セットのようなものがあったので、それをいただいた。まぁ、普通のどこでもあるような冷麺だ。それでも盛岡3大麺の一つをいただいたということで、満足だ。


こうして、この日は終わった。



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旅行期間:8/23/2005-9/2/2005(11日間)
移動手段:鈍行列車(JR)+長距離バス





8/26(三日目):
仙台 (宮城)→一ノ関 (岩手)→気仙沼 (宮城)→盛 (岩手)→釜石 (岩手)→宮古 (岩手)→盛岡(岩手)

(赤字は観光した場所。それ以外は乗り換え地点。)

今日は仙台を発つ日だ。さらに北へ向かい、宮沢賢治がイーハトーブと呼んだ岩手県へ入る。花巻で宮沢賢治記念館などを宮沢賢治ゆかりの地を見て周り、さらに北の盛岡へ進み、石川啄木などのゆかりの地を求める。東北本線を北へまっすぐ進む予定ということだ。


朝は早い。8時2分の東北本線仙台発一ノ関行きの電車に乗るのだ。彼女の化粧の時間はあいかわらず長い。待っている時間はこれまた妙に長く感じる。たぶん、この先なれることはないだろう。その時間を含めて、早めに起きることにしないと。僕は学習した。7時30分ごろホテルをチェックアウトし、仙台駅へ向かう。心配していた台風は太平洋へ大きく反れ、仙台の空は青空が覆っていた。早めに駅に着いた。今回はホテルで朝食を食べなかったので、途中で食べれるように、仙台駅で駅弁を買いたかった。駅弁販売コーナーへ行き、狙っていた牛タン弁当を買う。この牛タン弁当、以前テレビの何かの特集で、そのすごさを知っていたが、なんとある仕掛けで弁当を温めてしまうのだ。牛タンは一度火を通して冷めてしまうと、かなり硬いものになってしまう。やわらかい牛タンを温かいご飯の上に乗せて食べてもらいたいと、この弁当の考案者が知恵を振り絞って作り出した弁当なのだ。とにかく、僕はその弁当をどうしても試してみたかった。


その弁当をいれたビニール袋を手に、電車に乗り込む。その弁当を手に入れたうれしさが顔に出ていたらしい。「うれしいんやろ」。彼女に指摘された。一ノ関には9時39分に着く予定で1時間40分ほど電車に揺られることになる。その電車の中で僕は考えていた。このまま東北本線でまっすぐ北に上っていいものだろうか。もっとおもしろいことが他のルートに隠れているかもしれない。インターネットで時刻検索をし、予定を立て、その予定がプリントしてある白い紙(この旅で、僕らは自然と白紙と呼ぶようになる)と時刻表、路線図を何度も何度も交互ににらみ続け、予定されているルートに打って変わる面白そうなルートを思いついた。それは一ノ関から大船渡線に乗り換え、一路太平洋へ向かう。気仙沼や盛を経由し、そしてリアス式海岸と呼ばれる入り組んだ海岸を眺めながら走る三陸鉄道にのって太平洋沿いを北へ向かい釜石まで行く。そしてまた海岸沿いに進み、宮古で乗り換え、山田線で再び内陸部へ入り、盛岡へ着くというもの。


予定を変更する際に考慮しなければいけないことが3つある。一つは、今夜のホテルが盛岡に予約してあるという事実。つまり、夜には盛岡に着かなければならない。二つは、今日予定していた宮沢賢治記念館がある花巻を明日にずらさなければならないこと。3つは、盛岡後の予定が、盛岡から山田線で太平洋へ出て、宮古で乗り換え(宮古で一泊)、北リアス式海岸沿いを走り、八戸へ行くこと。これらの考慮事項をすべて解決していかなければならない。まず、一つ目の、夜は盛岡に行かなくてはならないというのは、時刻表で予定を組んでみたところ、夜9時には盛岡につけることが分かった。2つ目の、花巻観光をどうするかという問題は、花巻観光を明日の午前中に入れ込むことが可能と考え、解決。3つ目の、太平洋沿いから八戸へ向かうということに関しては、この針路変更で南リアス式海岸を走るのならば、わざわざ来たリアス式海岸をとおることもなく、盛岡からは直接八戸へ向かう、IGRいわて銀河鉄道乗ればよいじゃないか、という結論に至った。


彼女と相談した結果、予定を変更することにした。となると、一ノ関でかなりの待ち時間が生まれる。予定を変えなければ、数分の乗り換え時間ですんだのだが、大船渡線に乗り換えるとなると、1時間40分も足止めを食らうことになる。まぁ、よいか。仙台牛タン弁当でも食べながらのんびりしようじゃないか。一ノ関に9時39分に着き、一度改札を出て、待合のベンチに荷物をおろし、自分たちも腰をかける。ごく普通の地方都市の駅だ。少しうろうろしてから、駅弁を食うことにした。その弁当はかなり底がある。その側面からちょろっとでたタコ糸のようなものがこの弁当の特徴である加熱をスタートさせる貴重なもの。説明によると、まず中からしょうゆやとろろなどの付属品を除いてからふたを閉め、勢いよくその紐を抜く。するとすぐに加熱が始まり、7,8分後には温かい牛タン弁当が出来上がるという。注意書きには「やけどをしないように」とある。そんなに熱くなるのか。


糸を引いてみた。見る見るうちにその弁当の箱はあつくなり、手で持ってることが出来なくなる。「あちぃ、あちぃ」といいながら、その弁当をベンチの隣の席へそっと置く。箱のふたはその熱によって焦げ、隙間からは蒸気が噴出している。かなりの発熱剤が仕込まれているらしい。その7,8分が待ちきれず、また駅構内をぶらつく。あちこちにおかれている、観光情報のチラシに目をやったり、お土産屋で前沢牛の値段を見てびっくりしたり、どんな駅弁があるのか物色したり。また、雑誌コーナーでよく読んでいる雑誌の最新号をぱらぱら見てみる。そろそろ7.8分かなと、ベンチに戻ると、彼女が「弁当がでっきあっがり~ってゆうたで」っていった。「まじで?!すっげー聞きたかったわー!」。まじで悔しい。まじで聞きたかった。そんな機能があったなんて、説明に書いておけよ!とつい一番あたるべきでない相手を恨んでみたりする。すると彼女が「うそやで」と満面の笑みを浮かべて一言ボソッと言った。笑い転げる彼女。悔しくて悔しくてたまらない僕。まんまと彼女の悪知恵にはめられた。あほみたいだ。弁当が声で出来上がりと知らせるまで凝っているわけがない。


それでも、牛タン弁当はうまかった。牛タンを弁当でここまでやわらかく提供することが出来るのか、とそのおいしさに対する感動と、誰だかわからないがその仕組みを考案した人に対する敬意で分けわかんなくなっていた。とにかく、あの弁当はすごい。食べ終わった後に、弁当の底を調べてみた。そこには破れたビニールにつつまれた物体がある。たぶん、あの紐を引っ張ることによってこの袋が破れ、中の物体が空気に触れて発熱反応を起こすのだろう。その物体の成分については、化学が苦手な僕にとっては考える必要がないことだ。とにかく、その仕組みを考え出したことがすごい。


電光掲示板に気になる文字がある。11時26分発「義経北行伝説1号」。なんだこれは。早速時刻表で調べてみる。どうやら、夏季限定の臨時列車で、仙台を9時47分に出発して、一ノ関、平泉、花巻を経て、釜石線に移り、終点を釜石とする、義経が北へ逃げていった足取りを追うという特別企画列車であるらしい。


乗りたい。


20分ごろその緑色の電車は一ノ関一番ホームにやってきた。中を覗くと、豪華なシートで、お座席もある。乗りたい。しかも運のいいことに、その列車は快速列車で青春18切符でも乗れるじゃないか!これは乗るしかない!しかもこの時期は金土休日限定運行じゃないか。なんて運がいいんだ!と、盛り上がってる僕を尻目に彼女は、「乗らない」と決断を下す。というのも、それに乗ってしまえば、せっかくのリアス式海岸を多くの部分見損ねてしまうから。そして、大船渡線を行けば、気仙沼や盛という今後二度と行かないだろう町にも行くことが出来る。そう考えると、一時の欲に駆られて行動するよりは、計画通りに行こうと言うのだ。了解。。


11時25分発の大船渡線盛行きの列車に乗り込む。はじめ、のんびりとその山沿いを走る列車に揺られながら本を読んでいた。途中で、おじいちゃんおばあちゃんツアー御一行が乗り込んできた。それは、猊鼻渓という駅からだった。猊鼻渓は、砂鉄川の中流にある景勝地。電車からその一角でもいいから見えるかなと期待したが、全くもって無理だった。そのおじいちゃんのばあちゃんらはそこを見てきたのだろう。ツアーの引率は若い男性だった。途中、お茶を配ったり、弁当を配ったり、おじいちゃんの話し相手になったりと、シンプルだけど、気を使う職業なだけに、大変そうであった。その御一行でおどろいたことは、おじいちゃんたちはデジタルカメラを駆使していたこと。完全に使いこなしている。また、話のネタが、あのパソコンのCPUがどうのこうのでね、OSがXPだからどうのこうので、と全く最先端な話をしておられる。こんなおじいちゃんたちであれば、孫たちとEメールで連絡しあったり写真を送ったり、もしかしたら、ネットでテレビ電話なんかしているのかもしれない。これからはそういう時代なのだ。このおじいちゃんおばあちゃんらとは、結局宮古まで一緒になることになる。


気仙沼まで行くと、ついに太平洋が開け、リアス式と呼ばれる入り組んだ湾がつぎつぎと現れる。盛から三陸鉄道という第3セクターの鉄道会社路線となる。本当は青春18切符では乗れないのだけれど、改札のおばちゃんも気づかなかったので(もしくわおじいちゃんたちと同じ団体かと思ったのかもしれない)、そのままにしておいた。三陸鉄道はどうやらかなり経営がきついようで、車内いたるところで三陸鉄道を守ろうというチラシがあった。リアス式海岸という景色沿いに走る鉄道なのだけれど、どうも景色がよく見えない。トンネルや山の中を走ることもおおく、旅行者としては不満が残る路線だ。もう少し、線路沿いの延びた草木を整備してくれると、景色も見やすくなっていいのになぁ。


釜石まで来た。ここで、乗り換え時間が長いので、昼食をとることにした。駅の隣に釜石の魚市場があるらしく、いってみた。そこでおいしいご飯でもいただければと思って。しかし、時間が3時近くだったため、昼食時間を過ぎており、どのレストランもあいていなかった。市場には新鮮な魚介類がならんでいた。となりの、新しい建物にいってみたのだけれど、こちらはもっと期待はずれだ。中には、小さなショップが立ち並んでいたが、客もすくなく、全くの寂しい場所となっていた。むなしく動くエスカレーターが痛い。2階は集いの場のような広場になっていたが、人はほぼ0。見た感じ公共事業で立てられたものみたいだが、どう考えても税金の無駄遣いに見える。結局、新鮮な魚介類を使ったおいしいご当地料理はあきらめ、駅舎の2階のありきたりなレストランで中華飯定食をいただく。彼女は和風ハンバーグ定食だ。庶民的な味のラーメンがどこか懐かしく感じる。


釜石を14時28分に出発し、宮古まで行く。この路線はすでにJRで山田線という。この路線も、海岸沿いを走る。海を見ながらの旅はどこか透き通る気持ちになってよい。宮古には17時についた。1時間ほどの待ち時間がある。このときに、盛岡の今日止まることになっているホテルに電話を入れる。予定ではチェックインはこの17時になっていたからだ。夜の9時ごろになると伝え、電話を切る。宮古は予想以上に「町」だった。といっても、駅前はちょっとした店が並ぶ程度だが。ウミネコと浄土ヶ浜が有名で、駅前にはその銅像がある。18時11分に盛岡行きの列車に乗る。あとは一本でいける。20時41分に盛岡に着く予定だ。この電車はひたすら山間部を走り、しかも真っ暗の中ごとごとと大きな音を立てて、時折警笛を鳴らしながら進む。宮古から中高生らが乗り込んでいたが、止まる駅駅で、彼らは闇の中へ消えていく。こんなところで生活しているんだ、と驚きと感心とが入り混じった気持ちになる。外の景色も拝めなくなった僕らはひたすら小説を読み続ける。僕は「海辺のカフカ」の下巻を読んでいる。かなり面白く、次々とページがすすむ。彼女にも勧め、彼女は上巻を読み始めた。話の中での非現実的なストーリーと、電車に揺られている僕らの現実とを交互に確認するかのように、また、暗闇しかなく、窓に反射して写る車内を意味深に眺めてみたりする。なぞが多い。海辺のカフカというストーリーには解決されずに、説明も去れずに残されるなぞの部分があまりにも多いのだ。そのなぞの部分が時折僕の頭の中でめまぐるしく回り、疲れた僕は窓を見上げるのだ。


気づいたときには、また人が少しずつ増えていた。盛岡に近くなった証拠だ。盛岡へはあと5分。山岸、上盛岡とすすみ、やっと予定時刻どおり盛岡へついた。大きな駅だ。東北新幹線が通っているが、そのほかは岐阜のような雰囲気がある。またその規模も、駅前も、岐阜のような雰囲気をかもし出しており、なんとなく居心地がいい。それが盛岡の第一印象だった。盛岡で予約していたホテルは、駅の目の前にあった。これは楽でいい。このホテルに2泊することにした。明日もここに泊まり、その次の朝に十和田湖へ向かおう。1泊しか予約してなかったが、同じ特別料金で連泊できることになった。部屋はさすが駅前のビジネスホテルというだけ狭い。しかし、ベッドとシャワーさえあれば、リフレッシュでき十分だ。


おなかがすいた。釜石駅の食事以来、おなかに物を入れていない。早速、夜の街に出た。盛岡では盛岡3大麺といわれるものがあり、一つは有名なわんこそば、そして、じゃじゃ麺、そして、冷麺と3つの麺料理が有名だそうだ。今日は、今まで耳にしたことがなかった、じゃじゃ麺というものにトライしてみることにした。ちょうど、ホテルから道路を挟んだ向かいに子じゃれたじゃじゃ麺のお店「HOT JAJA」があったので、はいってみた。そこで、じゃじゃ麺と、おつまみと、ご当地ビールをいただく。じゃじゃ麺、韓国のジャージャー麺のようなものかなと想像はしていたが、やっぱりすこし違うものだった。硬めのうどんのような麺に、肉味噌をのせ、あとはラー油や酢で自分で味付けをしていく。トッピングはきゅうりとしょうがなどすごくシンプルだ。自分なりの味になったら、どんどん食べていき、残り少なくなったら、卵を一つ割りいれ、かき混ぜる。そして、「チータン、お願い」と頼むと、スープを入れてくれる。そして、残りの麺と卵が入ったスープになり、それも飲み干す。なかなかおいしい一品でした。地ビールのBAEREN BEERもいただいた。そして生ビールもおかわりして、気分はいい。


お店を出て、ホテルまで戻る。どことなく、居心地がいい空気が流れる。盛岡、いい町だなぁ。



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旅行期間:8/23/2005-9/2/2005(11日間)
移動手段:鈍行列車(JR)+長距離バス





8/25(二日目):
仙台 (宮城)→松島海岸 (宮城)→松島観光→(フェリー)→本塩釜 (宮城)→仙台(宮城)

(赤字は観光した場所。それ以外は乗り換え地点。)


朝は、7時過ぎに起きた。それは心地よい目覚めであった。自然と目が開き、あたりを見渡し、それが新しい一日の朝であることを一つ一つ確認していくような作業を続けた。彼女は壁に備え付けられた長いテーブルとセットとして置かれている椅子に座って、振り向き加減に起きた僕を見る。僕はすぐに起き上がり、パソコンをつけてメールチェックをして、そして台風11号の最新情報をチェックする。遅い。その台風は僕ら日本人をじらしたいのか、痛めつけたいのか、それとも僕らを恐怖おびえさせ続けたいのか、ゆっくりとゆっくりと太平洋を北上してくる。天気予報のおねえさんは時速15キロで北上中と全国の視聴者へ情報を届けている。情報番組のキャスターの「自転車でこいで進むよりも遅い速さ」という言葉に、はっとする。そんな遅いスピードで進んでいること、イコール、巨大な暴風暴雨域によって僕らは苦しめ続けられる時間が嫌でも長くなる。そんな方程式が頭に浮かぶ。いやだ。台風11号の進路予想図がテレビ画面に映し出される。そして、頭に埋め込まれたコンピュータが旅行の日程を照合し、東北に台風が直撃する日がある農場へ行く日とかぶっているという変えがたい事実を結論として瞬時にはじき出した。そのおかげで、先行きへの不安が僕と彼女の前を暗くした。


一日一日を楽しもう、という一致した思いをもってホテルの部屋を出て、とりあえず一階の和洋食バイキングで朝ごはんをいただく。中級のビジネスホテルにしてはまともなご飯が食べれるんだなぁと思いながら、和食と洋食をごちゃ混ぜした漁に関しては充実した朝ごはんを満喫した。ご飯を食べて、もう一度部屋に戻り、出かける準備をする。昨日のようにおっきなボストンバッグを担いで移動する必要はないから、その分楽な一日になるだろう。すぐに準備を整えたが、どこの女にも見られる準備の長さが、またここでも証明されたような形で、彼女と僕のと時間を広げている。化粧に夢中になっている彼女に、乾ききった声で出発を促す。半ばあきらめのような顔つきで化粧道具をしまい、荷物を整え、今日持っていく荷物を確認してから、やっとホテルを出た。


10時10分仙石線仙台発の快速列車がある。外は多少の曇り空。まだ台風の影響はないようだ。仙台という見知らぬ都会の道を颯爽と駅まで歩いていく。その駅前一帯はすばらしく整備されている。駅の2階が改札口につながる入り口となっていて、車やバスなどは普通に地上を走るのだが、メインゲートへつながる2階から外へ広がるのは駅前一帯を覆いかぶさってしまいそうなぐらいの歩道橋である。橋という文字が似合わないくらい広場となっており、また都市計画からみても、車などの移動物と歩行者を物理的に分けることによってよりスムーズな移動を可能にし、かつ双方の接触を最大限に押さえ事故防止にもつながる。その上で景観をどう保つかが一番の問題となってくるが、仙台駅ではまずまずの出来だといえそうだ。歩道橋には木々などの植物も植えられており、仙台駅の建物と歩道橋の色が統一されている。


仙石線のホームはその他路線のホームとは離れており、むしろ地上と地下の違いがある。長いエスカレータを下に下りて行き、少し歩くとホームが開ける。これが松島へつなぐ仙石線の仙台ホームだ。わりかし新しい路線なのか、使われている建設財、機器がまだやってくる旅行者に対して新しい雰囲気を提供する。周りにはリュックサックを担いだ家族連れ、地元の女子高生、一人旅デモしているのか大きなバックパックを担いぎ時刻表を手にする若者。思い思いの顔を浮かべ、ある者は笑顔で会話をし、ある者は硬い表情で電光掲示板を眺める。僕は、ホームに立ち海辺のカフカを読み始める。彼女は近くのベンチで休んでいるようだ。


快速列車は電光掲示板に表示されている時刻と同じ時刻にホームにやってきた。僕は毎回の癖であるかのように電車が予定時刻にちゃんと来たのかを確かめるべく、腕時計をちらりと見る。10時10分。列車内は混んではいなかったが、席は次々と取られていき、椅子とり合戦に負け行く子供のようにその光景をみて悔しい思いが掠める。たまたま空いていたボックス席ではない席に座る。引き続き海辺のカフカを読む。主人公の田村カフカ君と初老人のナカタさんがもしかしたら同一人物ではないのか、そういう推測が読み進める間に脳裏に浮かんではいたが、まだ確信がもてない。山梨県の戦時中のあの事故のなぞが解けたときにもつれ合っていた糸くずがぴんと一本のまっすぐの糸になるかのように、この話のクライマックスを迎えるのだろう。それまではこの小説を楽しめばいい。いろいろな思いを浮かべながら。


10時半ごろ、松島海岸駅に着く。切符を改札機にいれ、改札を抜ける。出口付近にあった数々のチラシに目を向けていると、松島観光パスポートのようなものがある。松島で行こうと思っていた観光スポットの入館料などの料金がことごとく割引になるというもの。これはすごい!すぐさま、駅の窓口のおじさんからパスポートを2枚買う。後で計算してみると全部で1000円以上の割引がされていた。すごい!


最初に言ったのはマリンピア松島水族館。駅から歩いて1分もない。駅前の忙しい国道をわたってすぐだ。入るとすぐにアシカショーが行われていた。よくあんなに調教ができるなぁと半ば感心してしまう。動物愛護団体ならば必要以上の調教は動物に対しての虐待に当たるかもしれないが、それによってこれだけ子供から老人まで喜ばせることが出来るなら、それはそれでいいことじゃないか。アシカショーを見た後、このたびで恒例となった旅行ノートへのスタンプ押しをして、館内を回る。生まれて初めてラッコを見たり、マンボウみたり、いろんなクラゲを見たり、ピラニア見たり、海の不思議まさにそこに集約されたかのように、見て、感動し、なぜという疑問が繰り返されていく。最後にペンギンに癒された。かわいいじゃないか。こないだ映画「皇帝ペンギン」を見てそのかわいさに興奮したが、生で見るペンギンは至上にかわいいじゃないか。気づいたらその水族館に1時間以上もいた。予想以上に楽しんでしまっていたのかな。


その後、松島の湾を右手に見ながらきれいに整備された松と芝生と歩道が入り組んだ広場を抜け海岸沿いに歩く。遠くに福浦島にかかる赤い漆の橋が見える。観瀾亭が少しずつ近くなってくる。次は何をしようか。松島湾クルーズのチケットを買おうか。観瀾亭で抹茶でも飲もうか。まずはクルーズの時間でも確認しておこう。チケット売り場へ行くと何人もいる案内人の中から一人こんがりと日焼けをした父親ぐらいの年齢の人が話しかけてきた。クルーズのコースの説明を丁寧にしてくれる。いろいろ話して相談した後、僕らが乗りたいのは3時過ぎだからということで、もう一度その時間になったらくることにした。それまで、いきたいところはたくさんある。じゃあ、早速観瀾亭に行こう。観瀾亭は松島海岸の高台に建てられた風流な建物で、歴代の藩主がここで納涼や月見などしてすごしていた場所らしい。そしてその裏には、松島博物館があり、伊達政宗などの歴史と呼ばれる時代から残されてきたさまざまなものなどが展示されていた。その中に、数々の印籠があった。水戸黄門様が一般市民に見せびらかしているあの家紋が彫られている小さな物体。印籠とはもともと何ぞや。そこにあった説明書きがそのなぞを解明してくれた。中国から伝わった薬を入れる小箱である。水戸黄門はその小箱を一般市民に見せびらかしていたのだ。そうだったのか。まぁ、「これを見よ」のこれがさすものは徳川家の家紋だったわけだけど、別に印籠を見せびらかせんでも。


展示物を全体的に見終わった後、観瀾亭にもどり抹茶をいただく。高台から望む松島湾はとても風流で、400年、500年前には伊達政宗らがここで同じ景色を見ていたと思うと、、、、、特にこれといったこみ上げる感情はない。ただ風流な建物の縁側で、松島の島々をみながら抹茶をたしなむという、その美しさはよかった。


次は歩いて忙しく車やトラックなどが走る国道を東へ数分歩き、みちのく伊達政宗歴史館への近道というなんともあやしい看板にまんまと誘われ、蔵の横の狭い歩道をとおる。その看板と細道は素直に目的場所へ連れて行ってくれた。広く開けたその場所はたくさんの車が並ぶ駐車場。そして、一見典型的なお土産屋の建物のような歴史館だった。駅で買ったパスポートを出して、受付の女性が半券をちぎり、中へ進む。順路に沿ってい進むとそれは、東北のお偉いさん方を忠実に再現した蝋人形とその功績などの説明がある場所だった。偉人たちがその出身県ごとに分けられて、その数50名あまり。東北は人材の宝庫なんだとその一つ一つを読むにつれて自然と思えてくる。教科書で出てくる人たち、伝記で読んだ人たちが、数多くそこで登場し、この人も東北、あの人も東北という、熱く、と同時に悲しい気持ちになった。伊達政宗はすごい。片目を失っても、その才能を申し分なく発揮し、天下を左右するまでの存在になったその波乱万丈の人生を、蝋人形で時の場面場面を表現して展示してあった。一つ一つじっくり読んでその生涯を自分のもののように共感しながら進んでいると、かなり退屈そうにしている彼女がいることに気がつく。最初は一緒に読み進んでいたのに、やっぱり女の子にはこういうところはそこまで魅力的じゃないのかな。一つずつ年をとるにつれ、歴史・社会に興味を持つようになり、高校生のときに毛嫌いしていた安土桃山・戦国時代のことなどでも、熱入れて読んでしまうんだね。自分は、時代を知ることよりも、その一人一人の人生を見つめてみたいという気持ちのほうが大きいのかもしれない。偉人と呼ばれる人間が、どういう生涯を送ったのか、そこに興味がわく。でも、ひとりで熱中してるわけには行かない。だから最後のほうの展示は半ば軽く読んでいった。


伊達政宗歴史館を出て、近くにある松島オルゴール博物館へ行ってみる。まるで機械のように、パスポートについている半券をちぎり、博物館の案内を手渡してくる。まるで僕らはベルとコンベアーに乗って運ばれて、決まった動作のために作られたロボットたちに忠実にその機能を作動させ、次のステップへと運ばれていくかのようだ。その次のステップは、おみやげのオルゴールたちがスペースいっぱいに置かれた販売スペースだった。僕らは、こんなところに来たかったわけじゃないと、ベルトコンベアに運ばれる物体じゃないと気づき、その流れを乱すようにあちこち歩き出す。行きたかったのは、さまざまなオルゴールが置かれた博物館だ。その建物の2階に博物館があることを知り、階段を上がっていく。階段に足をかけるあたりから聞こえてくるメロディー。それがどこから奏でられているのか知る余地もない。館内のスピーカーからなのか。オルゴールでないことは確かだ。というのも、そのメロディーはさまざまな楽器を組み合わせまるでオーケストラのような演奏だったから。2階へあがり、さまざまなオルゴールをはじめとした楽器を目にする。蓄音機あオルガンなどもあった。館内を一通りぐるりと回ったとき、ものすごい演奏が館内を響き渡る。それは、この2階の階段側の端から聞こえてくる。その胸を圧迫するような演奏に誘われ音の出所へ向かう。しかしそれは期待というか、想像というか、そういうものを遥かに超えて、大きな豪華でメルヘンな装いをした物体が。そこから音が聞こえる。音というよりも音楽で、音楽というよりもオーケストラだ。オーケストラというよりも、それはまさに時代を超えた感動。オルゴールといわれるそのメルヘン物体。僕の中ではオルゴールは金属のでこぼこついた円柱がまわり、そのでこぼこを金属がはじき、ささやかなメロディーを奏でるというお土産で、買ってもいつかはメロディーすら忘れ去られる運命にあるモノ。その勝手な固定観念を見事に打ち破いたその「オルゴール」は、1920年に作られたベルギー製のダンスオルガンというもの。その巨大な「モノ」のうしろでハンドルを回すと演奏が始まる。そのさまざまな楽器の音色の重なりは、聞き間違えばそこらで聞くオーケストラのようだ。オルゴールという固定観念を打ち破く力強く、意外性を多大に含んだ音楽は、深い感動をもたらした。その後、さまざまなオルゴールが演奏されたが、一つ一つに観客は拍手を送る。その場にいるすべての人がその感動を味わっているんだ。そう思う。


一通りの演奏を聴き、展示物を見て周ってからオルゴール館を後にした。歩いて遊覧船乗り場がある松島観光地の中心部へ戻る。食事はどこにしようか。そうさまようように歩いていると、たくさんの人たちが呼びかけてくる。客引きだ。レストラン、食事処、いろいろな形態はあるが、どこも仙台名物の牛タンや海の幸のホタテやカキなどを売り込んでいる。激しい競争だ。あるおばちゃんに、ホタテおまけするよ!ご飯大盛りにするよ!ととめられ、どうせどこも同じようなもんなので、ここに決めた。彼女はカキフライ定食。僕は牛タン定食をいただく。この旅のモットーは「食をケチるな」。どの土地に行ってもうまいものをいただく。せっかく東北にいるのだからケチることなくいただきたい。おまけのホタテも小さいがいただいた。おいしかった。


さて、仙台に帰ろう。帰りは遊覧船に1時間ほど揺られて松島の島々を見て周り、塩釜という港まで運んでくれる芭蕉コースを選んだ。1400円が例のパスポートをつかって1260円になった。4時の遊覧船に乗り込む。正直、松島の島を一つ一つ見て周るのはどうも好きではなかった。一つ一つ見たところで、そのよさがいまいちぴんとこない。やっぱり高台から、遠くから、その全体をみてみたい。そこに上がる朝日を見てみたい。そっちのほうが松島初心者にはいいのだろう。1時間ほどして塩釜港についた。クルージングの途中で雨が降ってきたが、港に着くとその雨はさらに強くなっていた。折り畳み傘を広げて、本塩釜駅まで歩く。雨はやまない。仙台でも降っているのだろうか。駅に着き、制服を着た高校生らと一緒に電車に乗り込み、またあのきれいな仙台駅仙石線へ向かう。仙台に着いたときには辺りはとっくに暗くなり、町は夜の装いに変わりつつある。駅前のLOFTに行ってみた。やっぱり全国どこへ行っても品揃えは同じであった。まぁ確かにご当地LOFTを周る物好きもいないから、そういった特別な品物は置くことはないか。店の中をどことなく歩いていたとき、電話が鳴る。富美だった。先週の土曜日に結婚式を挙げた。イリノイ大学で知り合ったアメリカ人と結婚したのだ。中部地方では有名な○○神宮で和式の結婚式を挙げた。僕は呼ばれてはいたが、大阪でのアレグリア講演と時間もかぶってしまっていたので残念ながら参加できなかった。富美は明日アメリカに戻るらしい。シカゴ近郊で主夫としてアメリカ人夫と共に新しい人生を歩みだすのだ。内心どんな心境なのか想像もつかない。今はおめでとうという気持ちがあるだけだ。そのまま伝えた。


ホテルに戻り、夜何食べようか、彼女と相談する。やっぱりおいしい牛タンをいただきたい。高くてもいい。ネットでぐるナビを検索。よさそうなお店を見つけた。べこ政宗という牛タン専門店でトロ牛タンというとろけるようなやわらかい牛タンを売りにしているお店だ。ガイドブックにも載っていた。駅の近くのアーケード街に店がある。ここしかない、という意気込みで再び夜の仙台の街へ繰り出した。雨はぱらついていたが、駅前ということでスーツ姿の男性が目立つ。地方出張で来ている人も多いのだろう。歩いて15分ぐらいだろうか。店は意外に居酒屋風の装いで、仙台市民たちにも人気があるのか、たくさんの若者や仕事帰りのサラリーマンたちで賑やかだった。そこで、トロ牛タンや仙台の郷土料理などをたらふくいただいた。ちょうどいい、このおいしい牛タンを実家にも送ってあげようと、お土産用のものを僕と彼女の実家に一つずつ送ることにした。彼女は疲れからか酒の回りが激しく、真っ赤な顔をして、意識を必死で保とうとしている。あまり無理をするべきじゃない。カラオケで盛り上がるかという話もあったが、今日は素直にホテルに帰ろう。



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